神社取り調べ 慶応4年~明治3年 里正日誌11p318

神社取り調べ 慶応4年~明治3年 里正日誌11p318

 新政府は、慶応四年(一八六八)三月、祭政一致を宣言し、神祇官を再興して全国の神社や神主を支配下に置く
ことにした。続いて神社の別当や社僧に還俗を命じ、神仏判然令を出して神社が菩薩・権現などの仏教語を神号
とすることや、仏像を神体とすることを禁止した。神社は、同年五月、大社・勅祭神社以外は府・藩・県が支配
することになった。

 韮山県は、明治二年二月、管下の村々に社寺領の「物成米金巨細」の取り調べを命じた。翌三月、蔵敷村組合
一二か村(粂川村・野口村・清水村・蔵敷村・奈良橋村・後ケ谷村・高木村・廻り田村・南秋津村・野塩村・日比田村・中里村)は「社
寺領取調書上帳」を県に提出している。六月になると県から神主が派遣され、蔵敷村組合の村々について神仏混淆
の調査が行われた。品川県でも同年五月、管内に所在する神社の取り調べをするように、村々に達している
(「里正日誌第十巻』)。

 明治三年十一月、新政府は大小神社の規則を制定し、府・藩・県に管内の神社を取り調べ、詳細を記して提出
するよう命じた。これを受けて、韮山県は管内の神社取り調べを管下の村々に通達した(12)。このとき貼付さ
れた神社取調書の雛形(12)には、祭神、設立年、拝殿の規模、祭日など神社の概要だけでなく、神主の職名.
位階・家筋・世代や県庁までの距離など、記載する項目の数は一五にわたっていた。この中で明治二年の「社寺
領取調書上帳」と重複する項目は、「社地現米高」だけであった。また、13は、明治三年明治里正日誌四冊四に
挟み込んであった蔵敷村熊野社の配置・形状および周辺の屋敷地・山・道などが書き込まれた絵図である。これ
には、「明治三庚午年十一月十七日韮山県御庁より御調二付与頭下調致し候麓絵図也」とあるように、蔵敷村で
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は県の役人が派遣される前に村内神社の下調べが行われていたのであった。

 小川村組合は、明治三年十一月に「神社取調書上」(15)を韮山県に提出した。これによれば、小川村組合の
中で規模(拝殿・社地など)が最も大きかった神社は小川村の神明宮であり、勧請は寛文元年(一六六一)である
という。「小川村起立書上控」(安政四年)によれば、小川村は九郎兵衛が開拓し、寛文九年(一六六九)に成立した
村であり、九郎兵衛によって「寛文年中」に神明宮の勧請が行われたという。このことから、神明宮は新田開発
にともなって勧請されたことがわかる。廻り田新田の氷川神社は、勧請が宝暦五年(一七五五)というが、検地を
受けて一村となったのが元文元年(一七三六)であった。しかし、このとき氏神がなかったので、「惣百姓相談ヲ以
て弥兵衛持高へ少々社地取仕氷川明神いなり明神両社ヲくわんしやう」(廻り田新田壱村定事)したという。小川新
田の熊野宮、榎戸新田の愛宕大権現、平兵衛新田の稲荷明神も村の成立時期ははっきりしないが、新田開発の出
願・許可や入村者などの年月が勧請以前であったことが明らかなので、いずれも新田の開発を契機に神社の勧請
が行われたのだろう。

 古村にあった神社は、勧請された年が不詳となっている。これらの神社は、熊野権現(蔵敷村)、八幡大菩薩(奈
良橋村)、尉殿大権現(高木村)などのように神仏混淆であった。新政府の政策に適用するため、神仏混淆をやめて
唱替えをしたのである。また、元々神主であったのは、宮崎義秋(小川村)、宮崎久宗(同上)、押本肇(奈良橋村)だ
けであり、他はかつて修験や僧侶が復飾したり、神社の鍵取であった。(14)は、芋窪村鎮守書上の草案である。
芋窪村は小川村組合に属していないが、蔵敷村の神仏混淆調査(明治二年)のとき、芋窪村鎮守の神主石井伊豆美
と行き違いあったので、掲載されたのかもしれない。また、(19)の末尾にある「武蔵国多摩郡蔵敷村鎮座」は、
(15ー3)と同文である。